スキとキライの間に
第2回目は、ゆうこさんの「スキ」と「キライ」について語った文章です。
私たちはついつい自分の好みを表明してしまいます。とんでもなくイジワルになっている時は、相手に聞こえるようにあなたなんか嫌いだと言ってしまう。
言った当座はザマーミロという気がするだろうし、あいつにガツンと言ってやったとセイセイしていることでしょう。でも、時間がたつと、それでいいのかと気になったり、そんなことをした自分がイヤになってしまったりすることもあるでしょう。
怒りに身を任せるのは、ある意味楽だし、スカッと瞬間はするでしょう。
でも、私たちは何もかもが思うように進んだり、心の中をすべて吐き出したらセイセイするかもしれないけど、あとから反省もするものだと学習していくのです。
だから、あまり相手に直接批判をぶつけないし、それをするのが相手のためになる、自分は間違っていない(それもあやしいものですが)という時にだけ、相手の批判を言うように変わっていきます。
そして、次の文章のように、すべてはつながっていて、キライだと排除しようとしたものと自分はつながっているし、スキだと思っていたところにも、キライに属するものが出てくることだってあるのだと知るのです。なかなかムズカシイもんですね。
* スキ・キライについて思うこと Y・M
私には、スキなものもあれば、もちろんキライなものもある。でも、ひとことでキライいと言ってしまえばそれで終わりだが、案外そうでもない気がした。
私はレバーがキライだ。でも、美味しい牛肉はスキ。牛が育つには、当然のことながら心臓や肺や腸といったあらゆる臓器が必要だ。肝臓もそのひとつ。
だから、私のキライなレバーがなければ、スキな美味しい牛肉も食べられない。だから私は、レバーもスキ?
私はうしろの席の子がキライだ。授業中にぶつぶつウルサイから。でも、考えてみれば、私だって授業中に友達とおしゃべりをしてしまうことだってある。私がうしろの席の子をウルサイと思っているように、私たちのおしゃべりをウルサイと思っている人も少なからずいるはずだ。
そうすればやはり、うしろの席の子が私に嫌悪感を感じさせるように、私も他の人に、同じように嫌悪感を感じさせてはならないと気づいた。そう気づかせてくれたのは、もしかしたらうしろの席の子なのかもしれない。だからうしろの席の子も、スキ?
私は音楽がスキ。空や海がスキ。家族や友達もスキ。これらはすべて、理由なんかなくスキでいられる。
私は勉強がキライ。バッタがキライ。他にもキライなものなんてたくさんある。でも、これらもレバーやうしろの席の子みたいに、理由を探せば「スキ」がついてくるのかもしれない。
こう考えれば、人生ってそんなキライなものばかりじゃない。