ひかりかがよう

20世紀の終わりから21世紀の初めの若者たちのことばです!

三十年を振り返る その2

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 私たちは、地の果てに来たような気分だったのです。一度下見に来た時、それは三月の下旬でした。花粉症もあったと思うけれど、緊張の方が強くて、鼻水が出ていたなんていう記憶はなくて、とにかく赴任地の学校で打ち合わせするため、天王寺から特急に乗り、新宮まで来ました。その日は日帰りの予定でしたので、朝早くに家を出たはずでした。でも、新宮に着いたら、もうお昼は過ぎていた。

 

 学校にたどり着くまで、バスで移動したのだったかな。いや、学校の若い先生のクルマで送迎してもらったかもしれない。当時の私は若かったはずなんだけど、その私よりも若い方が新宮駅まで来てくれていました。

 

 新宮駅はまだ活気がありました。世界遺産になったり、廃液を流していたはずの製紙工場がなくなったりしたのに、昨日訪れた時の新宮の街中は、何だか寂しくなっていました。

 

 それより十年ほど前、映画会社に勤めていた友人が、中上健次さんのシナリオで映画を作り、新宮と熊野とを行ったり来たりした、その頃はディーゼルではなくて、客車を引っ張る形の運行で、それがまた当時の地方感を出せていたように見えていたものでした。映画は「火まつり」という作品でした。

 

 その映画の舞台に、私たち夫婦は投げ出されました。男どもは祭があるとわめきちらし、女どもはその男に振り回されつつ、自分たちの流儀で男どもと対峙し、町の中で暮らしていく、そういう雰囲気の町でした。

 

 現実は、私たちは町の中心街にある大きなスーパーにホッとして、こんなところに映画館もあるし、都会と変わらない暮らしが存在するんだと一安心もしていたのです。

 

 当時はクルマの免許もなくて、移動するには列車とバスしかありませんでした。私はクルマの免許を取らなくてはならなかったんです。

 

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 学校は、海から数百メートルのところにありました。私の住んでいた住宅は、もっと海から近かったでしょう。浜辺の大きな石を波が洗うくらいになると、海がうねっているようで、慣れてしまうとそんなものかという感じでしたけど、住み始めのころは、こういう暮らしが私たちにもたらされたのかと感慨無量になる夜もありました。

 

 昼間は、生徒たちに向き合うのに必死で、余裕はなくて、夜になると、いろんなことを考え、とりあえず家族のもとに帰り、自分たちの生活を守り、自分たちの楽しみを見つけていく、そういうことに専念していました。

 

 テレビは電波の関係できれいには映らず、そのころ普及し始めた衛星放送をよく見ました。これはかなり重宝して、MLBを知ったり、いろんな映画を録画したり、もともとオタク系だった私は、みるみるうちにオタク度を高めていきました。

 

 六年間、御浜町というところに住みました。三重県の地図は当時持っていたんだったかな。本屋さんで見たんだったか、とにかく、こんな熊野灘に面したところにずっと真っすぐな浜が続いていて、その真ん中の町が私たちが暮らした場所でした。

 

 うちの子は、何にも知らないままに気づいたら、この海辺の町に住んでいて、ここに六年を暮らし、幼なじみはみんなここにいたのです。うちの子のふるさとは、この御浜町のアタワという所になりました。

 

 私たち夫婦にとっては、人生をリセットして立て直すことになった町、うちの子にとっては自分の人生が始まった町でした。