ひかりかがよう

20世紀の終わりから21世紀の初めの若者たちのことばです!

九年前のあの日の夜

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 九年前のその日のお昼過ぎも、黙々とお仕事をしていました。朝からぶっ通しでやり続けていたので、それなりにくたびれていたことでしょう。

 

 あとから、揺れを感じたという人もいたけれど、私は何にも感じていませんでした。でも、誰かが地震が起こったということを教えてくれた。

 

 阪神淡路大震災の時がそうでした。それは1995年でした。自分のところはそれほどではなくても、現地ではものすごいことになっている、その様子・状況を知らなくてはならない。そういうことがありました。その時は、大阪の実家では、母が「ありがとう、電話してくれて、大丈夫」ということでした。実家の母には余裕がありました。古い家は壊れなかった。でも、神戸では大変なことが起きていたんでした。

 

 さて今は、どこが揺れたのか? 私の実家の大阪なのか? 親戚の人たちがいる鹿児島なのか? それとも東北なのか? 情報が知りたくて、テレビのある部屋に休憩がてら行ってみました。何人かの人たちが集まっていました。

 

 東北で大きな地震が起こったということでした。しばらくテレビを見ていたのか、ただいろいろと切り替わる映像にどうしたらいいのかわからなかった、と思います。

 

 阪神大震災の時と同じように、どうしたらいいのだろう、とテレビの向こう側を見ていました。あまりに自分たちが無力で、現地の人に何にもしてあげられないのが辛いし、どうしたらいいのと、言葉もなかった。

 

  しばらくしたら、津波の映像が始まりました。採点もしなくてはいけないけれど、もうそれどころではなかった。その後、それらしく仕事はしたのだと思われます。19時には帰宅したみたいでした。

 

 でも、家に帰るまでにクラスの生徒たちと必死に連絡をとってたことが思い出されます。T波に2人、G馬の公立大学に1人の計3人が関東に向かっていました。翌日が試験だったはずです。

 

 東京にいた2人は、都内に設定された避難所に入り、一晩を明かし、二人で励まし合ったそうです。こんなところで仲間がいたこと、どれだけ心強かったことでしょう。

 

 長野県あたりを家族とともにクルマで向かっていた子は、引き返すしかなく、彼女は違う大学で管理栄養士をめざすことになりました。そんな落ち着かない夜がありました。とりあえず、知り合いのみなさんの無事にホッとしたけれど、本当はそんな簡単なことではありませんでした。

 

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  福島の原発で大変なことが事が起きていました。常に燃え過ぎないように原子炉を冷やさなくてはならないのに、電源がなくなって、原子炉は野放しに燃え続けていた。やがて、爆発して、放射性物質はあたり一面に飛び散ったということでした。

 

 自衛隊の決死の作業も功を奏しなかった。そして、ずっとその後追いを国全体でしているうちに、国民の大半は、もういいんじゃないの、という気分になってしまった。

 

 あの夜から、ずっと私たちは、どんなふうに生きていくのか、問われてたんだなと思う。ボクはあれから何をしてきたというんだろう。

 

 とにかく、何度か、妻の実家の岩手に行くようになりました。今年も夏に行くと思います。そこで、何ができるのか、また、考えたいです。

 

 今度こそ、三陸に行けるだろうか。

 

 

★ そして、2020年の5月になりました。連休って、特に関係ないですね。いつもだったら、大阪の実家に行ったんですけど、今はそれも控えています。

 

 夏くらいには、落ち着くんだろうか。いや、数字としての感染者は落ち着くのかもしれませんけど、潜伏者がいっぱいいすぎて、どうなってるんだかわからなくなる気がします。全然平気の感染者の人がいて、そういう人に接してガクンと悪くなる人がポツリポツリと出続けるのかもしれません。

 

 だから、落ち着く時はなくて、ずっと見えない感染者を疑う日々が続くのかな。甲子園も、その他すべてのイベントも自粛してもらって、すべての経済活動も抑えて、最低限のできることをして私たちは生きていくことになるんでしょうか。

 

 何だか、滅入ってしまいます。そんな世の中を生きていくのか。まあ、オッチャンである私は、人との接触を避けてぼんやり暮らしていくのかな。さらにアホになるのが怖いです。