ひかりかがよう

20世紀の終わりから21世紀の初めの若者たちのことばです!

インターハイの予選 1996

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 ものすごい昔、インターハイ予選の第一回めがありました。サッカー部の顧問になったばかりの私は、だれが他の顧問なのか、試合はどこであるのか、チームにどんな人がいるのか、何もわからないまま、たぶん、だれかの後についていけばいいんだろう程度の気持ちでいました。

 

 でも、少しずつ、これはひょっとして私がみんなを連れて、何もかも取り仕切らねばならないのかもしれないと気づいたのは、いつだったのか。

 

 そして、目の前真っ暗で、とりあえず、山の奥の方まで試合に出かけました。自分の車で行けばいいのに、引率だからと電車で行ったのではないかと思います。

 

 第一、会場がどこにあるのかもわからなかったような気がします。恐ろしいことです。どうしてそんな、何もかも丸投げするなんてことができたのか、それが信じられないけど、とにかくそうだったのです。

 

 会場に行き、生徒たちはユニフォームを揃えていたから、試合はほとんど生徒任せで、後は淡々と相手チームに粉砕されるのを見ているだけでした。どうしてあんなに簡単にディフェンスが破られ、点を奪われるのか。味方はといえば、それは見事にボールがつながらず、やみくもに蹴り飛ばすだけで、何も戦略があるようには見えませんでした。ああ、とんでもないことになりました。

 

 そこから、悲惨な日々は続き、サッカー部といえば、何もできないくせに内弁慶で、学校のグラウンドではあれこれ言うくせに、いざ試合になってみると、声も出せないような、か弱い、何をやっているのかわからないチームは続きました。

 

 一年生たちは、どうしたらいいのか、どういうチームなのか、どんな環境にあるのか、自分たちを見つめていたようです。そして、彼らは次に入ってきた後輩たちと、自分たちなりのチームを作っていき、二年目の夏は、地域の大会でも大暴れしたものでした。一年でチームは変わっていった。何しろ、次の学年の子らがいろんなキャラがいたので、それなりにチームとしてはおもしろくなれたんでしょう。

 

 そして、私は12年間ずっとサッカー部の顧問をさせてもらいました。大変な時もあったけれど、振り返ってみると、あれは楽しかったし、私の年を取ってからの青春劇の一つでもあったと思われます。

 

 特に何か恋愛などしたわけではないけど、若者たちが成長していくそのそばにいさせてもらって、一緒に一喜一憂できたのが、私の30代の青春ではありました。その代わり、子どもの運動会には一回しかまともに参加できなくて、妻にも迷惑をかけたし、家族には負担でしたね。何しろずっと顧問は私一人でやらされてたんですから。走れないし、審判もできないし、声も出せないし、指示もできないし、何にもできない私でしたから。

 

 そして、高校サッカーからは遠ざかり、今はただのつまらないオヤジです。もちろん、サッカーなんてできません。でも、野球よりも好きになれました。何が面白いって、人の体が躍動するのを見ていると、それは楽しいものではあるのです。