「働くこと」に対する意識 MNくん
「大変だけど、好きな仕事だから……」
介護施設で働く母がいつも言っていることである。華奢な体で自分より重いお年寄りを運ぶ重労働をして、夜勤や早朝勤務で不規則な生活をしている母を見ると、「働くこと」は苦痛なことという意識が生まれてくる。
しかし最近自分の中で「働くこと」に対する意識が変化しつつある。それは自分に「やりたい仕事」ができたからだ。
自分は小学校の時に英語を習っていたので、中学と高校は得意科目だった。だから、自分は英語を使う仕事に就きたいと考えている。通訳、教師、空港、外資系企業など視野にはいろいろある。今自分は「働くこと」に理想を持っている。
目標が定まってからというもの、母の仕事に対する考え(見方)も変わった。母が嬉しそうに「今日はこんな人と話をした」とか、「今日はこんなご飯を作ってあげた」といったような話を聞くと、世話好きの母にはこの仕事は合っていると思うし、自分の目標に対する気持ちも高まった。
「働くこと」は生きるためにも必要なことだし、費やす時間も多い。だから、それにやりがいを感じられたら、このうえない幸せだと思う。
★ 文章を書いたのは2007年の5月ころ、もう12年が経過して、彼はその道をたどっています。フェイスブックでは友だちだから、彼にも見直してもらおう!
大切な人 M・U 2007
大切な人がひとりでもいるということは、とても幸せなことだと思う。それは家族だったり、友だちだったり、恋人だったり、人によって様々だ。その人とどんな関係でも、「大切な人」はいつまでも大切にしたい。
自分が相手を大切に想うと、相手も自分を大切に想ってくれる。見返りを求めているわけではないけれど、自分が誰かに大切にされるということは、誰でもうれしいことだと思う。そのためには、自分も相手を大切にすることだ。
今、世の中では自殺や殺人など、人をあやめたり、自ら命を絶ったりする事件が後を絶たない。何憶分の一という確率でこの世に生まれてきた命を空費してしまうなんて、おかしな話だ。世の中絶対間違っている。
この世に生まれてきた限り、みんな誰かの「大切な人」だ。
私は、この世に自分を送り出してくれた家族を、私を今まで支えてくれた友人を、私につながるすべての人を、いつまでも大切にしていきたい。
文章を見ていると、彼女がじっくり話してくれている気がします。どうしているかな。元気で暮らしているかな。子育て、大変かな。
梅雨がイヤになってきます。
毎日、雨が降ってジトジトしていて、気分も盛り上がりません。もっとカラッとしてくれないものか。いや、今年の夏は1988年以来の寒い夏ということでしたけど、どうなるんでしょう。
カラッと沖縄でのコメントを3つ載せてみます。
* 伊江島ビーチ S・T
二日めのコース別の体験で伊江島に行きました。自転車を借りてまず伊江ビーチに向かいました。伊江ビーチに着いたとき、海は広くて、透き通っていて、とても感激しました。ビーチでバーベキューをした後、すぐに海に向かいました。そこで友だちと一緒に写真を撮ったりして、とても楽しい思い出になりました。
シーサーを犬小屋の屋根につけました
最後の一句もかわいらしい。行動力があるなあ。
* 湧出(ワジー)の印象 Y・N
とても険しい崖で、あんな高さから飛び降りたりしていたなんて考えられない。下を見下ろしただけで足が震えた。昔はその海に死体が何百も何千も浮いていたなんて信じられなかった。……そんな戦争がこの世からなくなることを願っています。
* 溺れていた? D・N
同じクラスのFくんのマリンスポーツの場面が一番印象に残っています。ウエットスーツとライフジャケットをつけていたのに溺れていました。インストラクターの人に
「一メートルも泳げやんのか」と言われていて、すごくおもしろかった。
★ みんな、沖縄の体験、楽しんでもらえたのかな。カラッとした沖縄、行ってみたいですね。秋がいいな。
沖縄の感想 2006 その1
* 写真を撮るのも忘れた C・F
花のプランターが左右にいくつもあるコンクリートタイルの階段。少し下って前を見ると、開けた空と海が広がった。その真ん中に城山が一つ浮き出た伊江島があった。あまりにその景色がきれいで、しばらく写真を撮ることすら忘れてしまった。潮の香りがする。温かくて柔らかい風が、空に浮かぶ白い雲とよく合っていた。友だちと島をバックに二人並んで記念写真を撮ったけれど、あの美しさは収まりきらなかっただろう。
★ 冬やのに何で咲いとるハイビスカス C・F
* 絶対忘れません C・T
私は、沖縄で起こった太平洋戦争のことを調べるために平和祈念資料館に行ったり、宮城喜久子さんの話を聞かせていただいたことがとても思い出に残りました。私たちは今まで戦争について勉強してきましたが、今回沖縄へ行き、戦争の悲惨さや恐ろしさなど、知らなかったことをたくさん知ることができて、とても勉強になりました。
宮城さんに挨拶をした時、自分の思ったことを全部言うことができ、宮城さんが力強く手を握ってくれたことは絶対忘れません。
★ 沖縄でナンクルナイサ叫びたい C・T
* 初めて沖縄に行って、初めてカヌー C・K
私は、初めて沖縄に行って、初めてカヌーに乗りました。最初、転覆のことばかり心配して、楽しむどころではなかったけれど、海まで出て、エメラルドグリーン色に輝く海、すごく心地よい波の音を聴いたりしているうちに、気持ちが穏やかになり、楽しむことができました。でも、曇っていたので、海の底まで見ることができなくて、少し残念でした。次にカヌーに乗る機会があったら、天気の良い日に乗りたいです。
★ もう平気飛行機なんて怖くない C・K
13年前の沖縄の旅でのひとことでした。宮城喜久子さんという方にお話をしてもらいました。都ホテル那覇の大広間で、私たちはお話を聞かせてもらったんでした。今もその時の気持ちはかすかに残っています。
それなのに、私たちの国家は、それよりも対中国、対北朝鮮、対ロシア、対韓国と、自分のまわりでいかに戦うかばかりを考えている。どうしてうまくつながろうとしないのかなあ。相手はどうあれ、とにかく両手を広げて付き合いたいのだけれど、国というのはそう簡単にはいかないようです。
お年寄りたちを訪ねる
* 田舎だけの特権 S・M
私は、大紀町の中にある柏崎という小さな町に住んでいます。この町はすごく田舎で、人数が少なく中学校までクラス替えがなく、みんな仲良く家族みたいな存在です。その他にも、町のみんなが仲良く、みんなで町をよくしようと協力しあっています。近所の人たちとはみんな顔見知りで、長い近所づきあいで信頼し合っています。
なので、何か困っていることがあれば助けてくれたり、何か食べ物をくれたりします。私はいつもそんな心の温かくて優しい人々に、助けられてばかりで生活をしています。
でも、そんな優しくしてくれる人たちはお年寄りです。なので、私が小さいときは毎日のように見ていた近所の人たちや、学校から帰ってくる時間に外に出て「お帰り」と声をかけてくれる人は、今ではあまり見なくなりました。
その理由の一つは、歩くことが困難だったり、腰が悪かったりと体調が良くないのです。だから私は、いつもお世話になってきた近所の人たちに感謝の気持ちを込めて、学校帰りやクラブが終わった後に、その人たちの家を訪れて、今日学校であったことや地域のことを話しに行きます。お年寄りの方々は人生の先輩なので、とても勉強になります。
私はこの町に生まれ育って幸せです。山や川もたくさんあり、自然豊かで、人は温かい、こんなすばらしい町が大好きです。 [2007年5月]
あいさつのある町
* 私の町と近くにある町 Y・K
「おかえり。」「ただいまー。」
保育所・小学校・中学校の時の帰り道で、その言葉はごく普通にかけられていた。自分自身も当たり前に知らないおばあちゃんやおじいちゃんに言っていた。他愛もないおしゃべりをして帰るものだから、帰りが遅くなってしまうことも度々あった。
高校生になり、親に車で送り迎えをしてもらう登校となった。今まで毎朝・夕方と会っていた人たちと会わなくなり、「ただいまー。」という言葉も時々使うだけとなってしまった。
私が小学生だった時のある夏の日の朝、私の二人の姉が、近くにある町に遊びに行こうと言い出した。なので私たちはバスなどを使いその町に向かった。知らない所を歩いていると、前から早足で向かってくるおばちゃんが歩いてきた。私は当たり前に「こんにちは。」と言った。しかし、そのおばちゃんはそのままチラッと見るだけで去って行ってしまった。私は、その時ものすごく悲しかった覚えが今でも残っている。私はそんなあいさつのできない大人になってしまう地域には、(私の住む)この町にはなって欲しくないと思った。
私の町では、今でもどこからともなく「お帰り。」の言葉が飛び交っている。その言葉の大切さ、暖かさを知っているからこそ、今の状況は少し淋しい。でも、これからもこの町はそんな暖かい言葉がずっと交わされる町でいて欲しい。[2007年6月]
★ 私の町は、その中間かな。知り合いやご近所の人らしき人は、名前は知らなくても声は掛け合います。知らない人も、外国の人も、お年寄りも、子どもたちも、みんなが声の掛け合いができる町が、そりゃ、いいですね。
せいわ村は存在し、今も続く!
秋のお彼岸には、必ずと言っていいほど勢和村に行きます。撮影スポットだってあるんですから。
* 私が暮らす町 A・M
私が暮らす町は、最近「村」から「町」に変わり、「勢和村」から「多気町」へと名前も変わりました。でも私の中では、「勢和村」という呼び方はこれからも変わらないと思います。「勢和村」という呼び方の方が、この「町」にはまだピッタリだと思うからです。
何もない勢和村だけど、この勢和村には、とても暖かさを感じます。
何気ない「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」などのあいさつも、勢和村では、会った人にあいさつしたり、されたりします。私はつい最近まで、こんな何気ないあいさつが当たり前のように思っていました。
しかし、高校に入り、松阪などの少し都会に遊びに出れば、たくさんの人に出会うけれど、その人たち一人ひとりにあいさつなんて、当然のことながらできません。ましてや知らない人にあいさつをすれば、変な人と思われるに違いありません。
勢和村は皆が家族のように親しく、そして本当に漫画に出てくるような、風景や人とのふれあいが見え、なぜか、それがとても落ち着く空間です。
春は、桜で山がピンク色に染まり、ツクシもたくさん生えて、小学校の頃はよく友達とツクシを採って、お母さんにツクシ料理を作ってもらいました。
夏は、今でもよく近くの川に遊びに行き、泳いだり、魚を捕ったりします。川の近くでバーベキューゃ花火、私たちにとっては夏の定番となっています。
秋は、もみじで山がオレンジ色に染まり、水田の周りにはたくさんのトンボが飛んでいます。
冬は、少し山が淋しげで切なくなります。でも、雪が降ると山や畑が真っ白に染まり、また違った勢和村を見ることができます。
春夏秋冬、私はどの季節も、この勢和村の風景が、どこかの町より輝いて見え、そして落ち着きます。勢和村ではなく、多気町になった今でも、何も変わらず、私たちの故郷・勢和村は、人々や自然の暖かさに包まれています。 [2006年6月]
★ 旧勢和村で撮った写真を3枚載せてみました!